田中浩一さん急逝

2010年8月21日。
ぼくは東京・京橋の画廊「ギャラリーK」にいました。
レンタルした機材を搬入して、自分がやっているバンド「WEDNESDAY_EVE」のライブの準備をしていました。
このギャラリーに来るのは二回目で、昨年の夏以来。
前回も今回も、大阪の画家=田中浩一さんの個展でした。
昨年の個展のときは田中さんがいて、その場で依頼されたのです。
「来年ここで個展をやるときは最終日のエキシビジョンとして松本さんのバンドにライブをやってほしいんです」

田中さんは、大阪で阿木譲さんが発行されていた『ロック・マガジン』の編集者で、80年代の半ば、末期ロック・マガジンの主筆と呼ぶべきライターでもありました。

ぼくは当時高校生で、田中さんが中心となっていた頃のロック・マガジンに大きな感銘を受けました。
毎月、学校の帰りに買って、部屋で読み耽り、気づいたら夜明けでした。
こんなに夢中になった経験は他にはありません。

田中さんが提唱した「サイケデリカ・ミュージック」や「エターナル・スピリッツ」というテーゼに、思春期のぼくは衝撃を受けました。

「僕達は最も至高な精神を最も卑俗なものの中に見る」

「僕達の存在そのものが汚辱であるからこそ、その対極としての最も神聖な精神が引き寄せられる」

「すべてのものに貪欲で猥雑であれ」

「最新の音楽は懐かしく最もセンチメンタルで最も根源的である。最新音楽を聴け」

これらの田中さんの箴言は今もぼくの中心にあります。

当時の田中さんの文章や、森山雅夫さんの絵画やデザイン、そして彼らが紹介するイギリスの音楽が、ぼくの価値観の根幹を作ったのです。
それは輝かしい天邪鬼。美しく繊細なキチガイ。矛盾したモダニストであること。
要するにぼくは田中さんや森山さんから「めちゃくちゃアホなことをいかにクールにやれるか」みたいなことを学んだのだ、と解釈しています。

森山さんとは19才のときに知り合って、田中さんのことはずっと話題に上っていたのですが、2008年になって初めて会えて、ぼくが作っている『溺死ジャーナル』に書いていただくことになりました。

その縁で、メールのやりとりが始まって、昨年の個展のときに再会。今年の個展ではライブをやることになったのです。

森山雅夫さんの撮影による田中浩一さんの個展の風景。


田中さんは画家としても歌人としても著名だったのですが、本職は大阪の私立高校の教師でした。
お盆休みに合わせて東京での個展を開催されたのに、今年は会期中に「校長・教頭との三者面談」の予定が入り、また顧問をしている部活の生徒さんが熱中症で倒れるなどのトラブルもあり、せっかくの個展なのに初日の搬入にしか来られなかったのです。ぼくらのライブに立ち会えないことを詫びる手紙やメールが何通も届きました。前日には「明日くれぐれもよろしく」という電話もいただきました。

当初、ぼくたちのライブで、田中さんは自作の着ぐるみを装着して「WEDNESDAY_EVEの演奏に合わせてモスラのように身悶えしながらダンスを踊る」と言ってくれていました。

実際、彼が着ようとしていた着ぐるみは会場に展示されていて、ギャラリーKのオーナー=宇留野さんは「田中先生の抜け殻が置いてあります」と言って、ぼくたちは大いに笑いました。

宇留野さんの宣伝もあって、ギャラリーにはたくさんの方が来られました。午後四時。ぼくたちは田中浩一さんの絵画に囲まれて演奏をしました。いつもながらのモタモタした演奏でしたが、楽しかった。あの抜け殻モスラ着ぐるみを着て、田中さんが踊ってくれたら、もっともっと、最高に楽しいライブになったでしょう。
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しかし、おそらく、この時、すでに田中浩一さんは他界されていたのです。

ギャラリーから田中さんの絵が次々と搬出されていくのを、ぼくらは見ていました。翌日、大阪のご自宅にそれらが届いたのを受けて、ご家族がギャラリーに「田中浩一は亡くなりました」と連絡を入れられたそうです。

死因は急性の虚血性心不全。自宅で倒れられて、そのまま息を引き取られたそうです。

翌日の夜、ぼくらは渋谷でライブをしていました。23時頃、宮益坂の打ち上げ会場に入る直前、一足先に大阪への帰途についていたメンバーのアサヒラさんが夜行バスの中からメールを打ってくれ「mixiに田中先生が亡くなったという情報が載っている」と教えてくれました。情報の発信元はAska Templeの弓場宗治で、彼はギャラリーKの宇留野さん→岡山ペパーランドの能勢伊勢雄さんを経由して、第一報をネットで開示したのです。

森山さんやペパーランドに電話して、真偽を探りましたが、どうやら事実のようで、楽しいはずの打ち上げは沈痛なものになってしまいました。

翌日、大阪の四条畷でお通夜があり、WEDNESDAY_EVEを代表してアサヒラさんが参列して下さいました。ありがとう、アサヒラさん。塩崎さんも電報を打たれました。他のメンバーも今回のツアーのきっかけを作ってくれた田中さんに感謝をしています。ぼくは小さな花を斎場に送りました。

森山雅夫さんによると、田中先生のご遺体は、とても安らかなお顔をされていて、ご家族も気丈にしておられたそうです。その情報が唯一の救いでした。

『溺死ジャーナル』の「なかた・いっこう」の連載は未完のまま終了です。文筆家としての絶筆は、おそらくAska Templeの最新作『ZERO SCIENCE=MU』のライナーノーツ「真に革新的なドローン、あるいはMUの恍惚」と思われます。的確かつ鋭利な語彙とフラットな視線で相対的な批評をしつつ、繊細を極めた文体で、劇的に音楽を再生します。その洗練され尽くした文章はレビューという枠を超えて、批評の対象となる音楽と等価の美しさを湛えています。これは画家であり、歌人であった田中浩一という芸術家にしか書けないライナーノーツです。

「エターナル・スピリッツ宣言」で「生き続けろ!くたばるな!」と書いた田中先生がポックリと逝ってしまったショックは大きいのですが、そこは何せ「エターナル・スピリッツ」なのだ。それは生死を超えた精神の提示だったのだ、と思いたいです。

死はNOTHINGと同義であり、まさに「MU」=「無」である。

「冥福を祈る」という言葉は田中浩一には相応しくないかも知れませんが、彼の魂が安らかに、気高く、美しく、この宇宙のどこかに漂い続けていることを、ぼくは全霊を込めて祈ります。永遠に。


松本亀吉
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by kamekitix | 2010-09-07 01:05 | Diary
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