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わたし47才会社員なので人間ドックをもう12年連続受診していることになる。

大阪、名古屋、東京と複数の医療機関で受けてきたのだが、ここ数年恒例になっている名古屋市昭和区にある健診センターへ今年も行ってきたので克明にレポートしよう。

もし、まだ人間ドックを受けたことがないという若い読者の方がいらっしゃればぜひ参考にしていただきたい。そう思います。



人間ドックの朝は早い。8時集合である。

前日までに二本の容器に大便の採取を済ませ(大便の採取方法についても、その手際を詳しく語りたいのだが今回は割愛する)、問診票の項目を漏れなく記入をしておくことが肝要である。

記入漏れがあると受付で突き返されてロスタイムが生じ、後から来た人に順番を抜かされるという屈辱を味わうことになる。

ちなみにこのセンターは、8時集合と言いつつ実は7時半には開場されていて、来た人が順番に名前を書いて待つ(ファミレス式)。

ちなみに今回、私は7:45に入って四番目だった。



首尾よく受付を済ませると、ロッカーの鍵を渡されて「着替えてこい」ということを言われる。

座敷みたいなロッカー部屋で、用意されている薄い生地のトレーナーに着替えて、受付に戻ると、今度は紙コップを渡されて「そこのトイレで小便を取ってこい」ということを言われる。

そう。小便をするのだ。だから、健診センターに入る前に駅のトイレでおしっこをしてはいけません。

トイレの小窓におしっこ入りカップを置いて、また受付に戻ると、書類を渡され「これを持って右へ歩いてゆけ」ということを言われる。

ここからが本格的なツアーの始まりだ。

これまで私の眼前に現れていたのは、オフィスレディ風の制服を着た若い美女たちだったが、ここからは白衣をまとった人々が対応してくれる。



まず採血コーナー。ナース姿の若い女性が抜いてくれる。



続いて身長体重、血圧、聴力、視力、眼圧、肺活量と測定が一気に進められる。

早い時間帯なのでスタッフのみなさんも「こいつら早めに処理していかんと後がつかえるからな」という感じで猛スピードで各測定が施される。

「役所でたらい回しにされる」などという言葉があるが、人間ドック前半戦ほど社会人があからさまにたらい回しにされる機会はない。

ダサいデザインの薄手のトレーナーを着たおとな達が見事にたらい回しにされている。

ただ、これは正しいたらい回しの舞台であり、受診者は快くスピーディーに回されるべきだ。

「これではたらい回しではないか!」などと怒る人はひとりもいない。



去年、聴力検査のコーナーでパニック発作をおこしかけた。

「小さな密室に入ってヘッドフォンをつけて音が聞こえたらボタンを押す」というやつだが「その部屋に入ってしまうと内側から開けることができないのでは」という強迫観念があって、今回も少し憂鬱だったのだが、よく見ると、いやよく見なくっても思い切り密室のドアの内側に普通にドアノブが付いていて、その気になればいくらでも出れることがわかった。

ぜんぜん怖くない。

この一年、おれは何に怯えていたのだろうか。



肺活量の測定は、受診者のMAX値を引きだすためにスタッフの女性がとても頑張っておられる。

芝居がかった大声で「吸って吸って吸ってー!もっと吸って!もっともっともっと!」「思いっきり吐いてー!まだまだまだー!もーっともっともっと、もっとー!」などと煽ってくれる。

穏便かつ密やかに粛々と進められる他のコーナーと比して、この全館に響き渡るような喧噪は異質だが、彼女のテンションが受診者のモチベーションと肺活量値に大きく影響するのだ。

毎年思うのだが、この肺活量測定を担当するスタッフの技量を競う全国大会はないのだろうか。

あったら見てみたい気もする。



続いて、エコーと呼ばれる超音波カメラによる腹部の撮影。

これが私個人的に最大の難関である。

毎回、胆嚢にポリープが見つかるという事態も一因だが、それ以前に、笑ってしまうのだ。

腹部の皮膚全体に温かいゼリーを塗られ、ローラーが付いてると思われるバーコードリーダーみたいな器具でグリッグリグリグリやられる。

わたくしは生まれつき、おなかを触られるのが苦手で、もう、すぐに笑っちゃうの。感じやすいんだ。

かつてフェラチオの最中に脇腹を触られて身をよじって爆笑してしまい、女の子の顎に膝蹴りを入れてしまったことがあるぐらい、おなか敏感なの。

そんでまたこの施設のエコー担当の先生が無表情な若禿のお兄さんで、とても淡泊なトーンで「息を吸って。止めて。楽にして」とか繰り返すのが、もうおかしくておかしくて(笑)。

人のおなかをありえないぐらいグリグリしといてそのクールネスはなんなの(爆笑)。

しかも、は、は、ハゲとる(爆笑)。

もう、すべてがおかしくってたまらないのですが、若干足をバタバタしたりして、なんとか笑いを堪えた。

胆嚢ポリープが悪化していないことを祈る。



心電図の担当は少し年上のお姉さん。

このお姉さんもプロフェッショナルだ。

心電図と、この後の胃部レントゲンの準備である注射担当を兼務している。

全員に「きれいな写真を撮るために~、一時的に胃の動きを抑える~、筋肉注射~♪」と歌うように言いながら注射をしている。

これ毎日やってるんだから大変な仕事だ。

心電図は寝てるだけなので楽。



胸部レントゲンの担当はクールな美女。

小柄で、髪は茶色のボブ。やけに艶っぽい雰囲気を醸しだす。

「誘ってるのか」と思わせる色っぽい目つきで、いわゆる男好きのするタイプである。

しかし、胸部レントゲンは15秒ぐらいで終わるので、束の間のエロスだ。



さて、最後の演目は、胃のレントゲン。

バリウム飲むやつ。

バリウム飲んで12年。

だんだん慣れてきたものの、やはり嫌なものである。

しかし、年々改良されているのか、以前に比べるとずいぶん飲みやすくなったなあ。

味もなんだかヨーグルトっぽい感じがして、ぜんぜん飲める。

数年前まで「まじでセメント」って感じだったけど、だいぶサラサラ感が増した。

バリウムを飲む前に胃を膨らませるための発泡剤を飲む。

これが苦手だと言う人が多いですよねー。

これを克服するのは難しいのだが、私がアドバイスするとすれば、とにかくスピードを重視してほしい。

猛烈に発泡する顆粒と水を手渡されるのだが、顆粒をなるべく喉の奥に一気に放り込み、一秒も置かず、ほぼ同時に水を飲み、鼻をつまんで息を止める。

ゲップしちゃうと何度でもやり直しさせられるらしいのだが、わたしはまだやり直しさせられたことはない。

バリウムが苦手な人にもちょっとしたコツを伝授しておきたい。

バリウムがきついのは「はーい、それでは一気に飲んでくらさーい」って言われるときなんですね。

でも、実はその前に「まずひとくち飲んでくらさい」って言われる瞬間があるので、そこがチャンス。

ひとくちと言われつつ、けっこうたくさん飲んでしまうのがコツです。

「わいのひとくちはこんなもんやでザパー」みたいな勢いで、意外とたくさん飲んじゃう。

そしたら次に「はーい、それでは(残ってるの全部)一気に飲んでくららーい」って言われたときにちょっとしか残ってないので楽です以上。



バリウムは進化しているが、レントゲン撮影手法自体は旧態依然である。

今回の胃レントゲン担当者がまた秀逸なキャラクターの方で、昔の時代劇に出てくるぬぼーっとした役者さんみたいなルックスに蛭子能収さんのテイストが入ったような実に気の良さそうなおじさんだった。

別室に籠った蛭子さんが台を操作しつつマイクで指示を与えるので、そのとおりに動く。

まず台を水平にされて「右から三回転しろ」ということを言われる。

胃の内壁にバリウムを万遍なく行き渡らせるためであろう。

これがけっこう大変。

水平になった板の上でいきなり三回転。めっちゃバタバタします。童心に帰ります。

あとはもう蛭子さんの独壇場。

「少し右腰をあげろ、いや、ちょっと戻せ」だの「手すりをしっかり持て」と言って台を激しく回転し、ほとんど逆さまになった状態で「膝を使って腰を上げろ」とか無茶なことばかり言う。

5分間ぐらいボアダムズでいうところの「あらゆるアホな体位」を演じたあと、正面立位に戻され、最後は「おなか押しますよー」と言って、バーを起動させ、腹を数回かなり強く押してくる。

微妙に位置をずらして攻撃してくる。

再三申しますが、わたしはおなかが敏感で、ここでも爆笑しそうになって、手をバタバタすると蛭子さんがマイクで「痛いですかー、痛かったら右手をあげてください」と言う。

痛くはないので「大丈夫です」とつぶやいて指でOKサインを出した。

おなか敏感なの困る。



最後に医師による簡単な診察があり、聴診器を当てられたり、首を触られたりする。

ここでもおなかを触られたので今度こそ「おなか苦手なんすよふはははは」と笑うと、おじいさん先生も「じゃあやめときましょう」と笑ってくれて、腹部触診は免除となった。



ということで、90分ほどで全行程を終了し、OL風の受付嬢にロッカーの鍵を返して、センターを出る。



吹上駅へ向かう途中の喫茶店でモーニングを食べる。

これも年に一度の恒例行事である。

「シシリアン」という喫茶店で、スパゲティが有名な老舗のようなのですが、いつも朝10時にしか来ないのでスパゲティを食べたことはありません。



バイバイ
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by kamekitix | 2014-09-25 22:14 | Diary
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90年代の前半、先日述べましたとおり、わたくしはのんびりと大阪でフレッシュ・サラリーマン・ライフを始め、また、若気の至りでライブハウスに出演して、あられもない姿を演じたり、意味のない喧嘩をしたりし始めましたが、そのへんの話はまたいつか。

リスナーとしての欲求はかっこよくダンサブルな音楽への指向が強くなっていた。なぜだろう(しらん)。
そのへんの話もまたいつか。

アシッド・ジャズのレコードをたくさん買ったのは1991年ごろです。
コーデュロイ、サンダルズ、マザー・アース。
アシッド・ジャズから派生したトーキング・ラウドのインコグニート、ヤング・ディサイプルズ、オマー。
mother earth - stoned woman


Young Disciples - Apparently Nothin'


たくさんのバンド、アーティストがアシッド・ジャズ・テイストの意匠でデビューしたが、商業的成功という意味ではジャミロクワイの一人勝ちという印象だった。

日本でも影響を受けたアーティストはたくさんいて、コーネリアスのファーストはまるっきりジャミロクワイのコピーだし、ヒット曲を連発していたころのオリジナル・ラヴのアレンジや桜井鉄太郎のコーザ・ノストラなどもアシッド・ジャズのテイストをうまくJ-POPに昇華していて、愛聴していた。

THE BRAND NEW HEAVIES - Never Stop


中でもブラン・ニュー・ヘヴィーズは老舗のエース的な存在で、ポップスに寄ってスマッシュ・ヒットを量産しつつ、ブラック・シープやギャング・スターをフィーチュアしたタイムリーなラップ・アルバムをリリースするなど、アシッド・ジャズの屋台骨だった。

来日公演も見に行った。心斎橋クアトロ。

それで、まあ、アシッド・ジャズとは、簡単にいうと、ジャズっぽいファンクで、お手軽なソウルという感じ。

おそらくジャズ・ファンからもファンク・ファンからもソウル・マニアからも大いに白眼視された軽薄なムーヴメントだったと思う。

わたくし自身、ジャズもファンクも本格的なことはぜんぜん知らないでいきなりアシッド・ジャズを聴いていた。
後追いで、エレクトリック・マイルスとかブーツィー・コリンズとかリン・コリンズとかデオダートとか聴きましたが、ルーツたるそちらに傾倒していった訳でもなかったです。

こういう軽率な雑食性は、自分では嫌いじゃないのです。
だって「ファンクはJBしか聴かない」とか「ブルーノートの1500番台しか聴かない」とか言うおとなにならなくて済んだもの。
そんな偏屈なおっさん、きっとモテないよね。

それにしても、おれは心斎橋クアトロによく行っていたなあ。
セイント・エチエンヌもジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョンもミート・ビート・マニフェストもあぶらだこもコーザ・ノストラもネロリーズもクアトロで観た。
オリジナル・ラヴのときはお客さんの女性たちがキレイで色っぽい人ばかりで目のやり場に困ったっけ。


バイバイ
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by kamekitix | 2014-09-23 22:05 | Review
おれの就活についてなのですけれども、1989年の夏まで「なんらかの教員になる気がする(父親も教師だったし)」などとぼんやり想像する程度だったのだが、秋にふと思い立って説明会とやらに出向いた会社で首尾よく内定をもらい、翌90年春からサラリーマンになった。

高校まで真面目に生きてきた反動で遅まきながら大学生になってから不良を始めた私は、とても毎朝決められた時間に出社したり、会社の上司の指示に従順になったりできないだろうなーと思っていたのだが、簡単に慣れてしまった。

「すごく面白い会社のいちばん楽な部署に配属された」という幸運に因るところが大きかった。

5年間、大阪の本社で大いに遊び、いや修行し、95年5月に突然名古屋への転勤を命じられた。
名古屋でも大いに遊、いや働いたのだが、その話はまたいつか。

実は赴任するまで名古屋の地に足を踏み入れたことが一度もなかった。
「遊びに行きたい」と思っていたところに転勤のオファーがあったので嬉しかった。

名古屋のイメージは割礼とエコエコサイクルズと『中学生日記』。
それから、ガラス玉という名前のバンドのライブを大阪で観ていた。
「名古屋 ガラス玉 バンド」で検索したらJOJO広重さんのブログがヒット。
広重さんも同じライブを観ていたんだなー。

エコエコサイクルズはネオアコ系だったが、割礼やガラス玉はドロドロにサイケデリックで、名古屋の印象を偏ったものにさせていた。

この時期の割礼、大阪ツアーのときは必ず観てた。


ドラムスが止まってしまいそうなほど緩慢なリズム。
SWANSよりも遅いけど、ヘヴィネスを追求しているわけではない。
音像としては裸のラリーズに似ているのかもしれないが、スピリチュアルなアウフヘーベンなどとは無縁だ。

 電話の悪魔と
 バトンガールだったきみ
 夜に弱いきみだから
 遊びは終わったよね
 退屈だったんだよ
 歌なんかうたってさ

 (「電話の悪魔」)

ギター・ボーカルのフロントマン、宍戸幸司さんは長身痩躯の美青年で、歌詞にはだいたい女の子が出てくる。
「ごめんね女の子」というそのまんまのタイトルの名曲もある。

この時期の私は(今もだけど)、「女の子」が大好きだったので、宍戸さんのスタンスに激しく共鳴。
ゆっくりとしたビートの長い曲の終盤で繰り出されるヒリヒリ焼け付く真夏のオレンジ色の陽光みたいなギターソロに、彼が描き出す女の子の姿を重ね合わせて、猛烈に興奮した。

宍戸さんの声はキュートで、ギターの奏法はエロチックなほどに粘っこい。
「かくも長年にわたりロックにギターが使用されているのはその性的メタファーに起因するのではないか」と思わせるほど、宍戸さんの指使いはセクシーだ。

当時の割礼は、漫画でいうと丸尾末広の世界に近かったかもしれない。
丸尾末広というとどうしてもハードコアかつパンク、あるいはハードコア・パンク、な印象が強いけど、あの無邪気さゆえのグロテスクには、宍戸さんの乾いた歌詞の世界とすっかり剃り落された眉毛に通じる独特の美意識とユーモアを感じる。
いまふと思いついた。

花電車のファースト・アルバム・レコ発ライブ(1988年1月)の対バンが割礼で、エッグプラントで最前列で観た。
これが実に凄まじいサイケ対決だった。
あの夜のイベントは自分のロック体験の原風景になった。
ウォークマンで録音していて、何度聴いたかわからない。

ちょうどその時期の割礼のライブ・アルバムが『LIVE '88』。
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2000年頃に一度だけ宍戸さんにお会いしたことがある。
あれは何のイベントだったのだろう。確か、さねよしいさ子さんもいらっしゃった。
詳細は忘れたが、とにかく宍戸さんのグラスにビールを注がせてもらいながら、自分が如何ほどの割礼ファンかを伝え、宍戸さんは想像どおりシャイな反応をされていた記憶があります。

さて、わたしはかれこれ10年近く愛知県に籍を置いているのだが、いまだに名古屋のことをよくわかっていない。

今池にはいまどき東新宿でも見かけないようなパンクスがいるし、大須には割礼チルドレンのようなサイケデリックな人たちもいる。
鶴舞に行けば毎晩ストレンジなバンドがファンタスティックなライブをやっているし、矢場町のギャラリーではカレーを食べながらノイズを聴くイベントがあったりするらしい。
常滑や半田にもおかしなひとがいっぱいいるようだ(笑)。

父親は大阪市東住吉区の生まれ。母親が台東区浅草生まれ。
自分は間をとって愛知県に骨を埋めることにした。

これからもっともっと地元を開拓していきたいと思っています。



バイバイ
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by kamekitix | 2014-09-15 19:16 | Diary
9月4日

群馬県にお住まいの会社員の人から「聴いてほしい」と自宅録音された音楽のCD-Rが届いた。
私のような者に託される自主制作のデモ音源はたいてい自己陶酔しきった勘違いパンクか一筆書きみたいなノイズなのだが、この人の音楽は良かった。
歌もかなり巧くて演奏も安定している。オーソドックスなブリティッシュ・ロックへのリスペクトを隠そうとしないところに真摯で誠実な人柄を感じる。
「夏の終わりにこのCD-Rを聴けて良かったです」と返信メールをした。

自転車に乗って伏見通を北上、桜通を東へ。
名古屋市内の自転車の走りやすさは異常だ。
自転車の走行レーンが広くて、ちゃんと往復2車線確保されている。
独身のころ住んでいた東区泉のマンションの前を通って、国道19号沿いの倉庫へ。
膨大な書類が乱雑に積まれた恐ろしい倉庫だ。
平成7年の天白区に関する書類が欲しかったのだが、「これや」と思って開けた箱には昭和48年の緑区の書類が入っていたりする。
会社の長い歴史と、内部統制の甘さを同時に感じる。

代官町の商店街にある中華料理「香蘭」で麻婆飯。
ボリュームのあるランチで有名な喫茶店「ダッカ」でコーヒー。
「アイスコーヒー」って言ってるのに山盛りのポップコーンが出てくるという、名古屋の喫茶店文化を支える過剰サービスも、15年ぶりぐらいに満喫。
かつて遅めの青春をすごした町、名古屋市東区。

栄の事務所に戻って、少しだけ残業して、金山まで自転車。
名鉄で太田川へ帰る。
各駅停車がほぼ貸切状態で、満員電車が苦手な私のためだけに運行してくれているかのような快適さ。
駅前に奥さんが車で迎えに来てくれる。
家まで歩いて10分程なのだが「夜道は危ないので」と言って来てくれる。
(危ないのは自分のほうなのだが)と思うが、毎晩、厚意に甘えている。

Twitterで教えていただいた「しんまち七色ばんど」。


先月Y氏に聞いた話をいまだに反芻している。
エッグプラントのマネージャーで関西パンクスの元締めのような存在だった大先輩。
「亀吉どこにも書いたらあかんで」と言われて実際書けない話ばかりだった。
たいていのバンドを辛口でぶった斬るY氏でさえ「GAUZEは抜群だった」と言ってた。


9月5日

にゃん吉一周忌。



バイバイ
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by kamekitix | 2014-09-05 00:54 | Diary
私は1985年に大学に入って90年に卒業したので輝ける80年代後半をとてもアンニュイなモラトリアム・キッズとして満喫することができた。

85年は豊田商事事件と日航機墜落。86年は岡田有希子自殺。87年はおニャン子クラブ解散。

多感期にこのような陰惨で衝撃的な事件を目の当たりにしてしまったので、88年以降は渡辺満里奈に魂を預けることとなった。91年にフリッパーズ・ギターが「夏休みはもう終わり」と宣言するまで、私は『NOTE BOOK』という写真集を教典とする「マリナ教」に帰依する敬虔な渡辺満里奈原理主義者だった。

精一杯アイドルに現を抜かしつつ、ダンス・ミュージックも好きだった。

シカゴで発祥したアシッド・ハウスが輸入され、チープなビートにスクラッチとサンプリングだけ、みたいなレコードをたくさん買っていた。

世界的にそういうのが流行っていて、こんな平坦でなんの展開もないナンバーが何週間も全英チャートの1位だったんだよ。

M|A|R|R|S 「Pump Up The Volume」

わたしはBomb The BassやBABY FORDが好きで、RHYTHM KINGのロゴの入った作品を無条件に信頼していた。BETTY BOOもRHYTHM KINGだったなー。ほんとよく聴いたわ。

アシッド・ハウスのクールネスにロックのイディオムを折衷したロンドンのレーベル=RHYTHM KING RECORDSの中でもひときわ異彩を放っていたチームがS'EXPRESSだった。

ファースト・アルバム『ORIGINAL SOUNDTRACK』、ピクチャー盤のLPとCDをいまも持ってる。
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他のアシッド・ハウス系のアーティストに比べて、下世話なほどにゴージャスでドラマチックな展開が特徴のS'EXPRESSの戦術は、平坦でトリッキーなものが重宝されていたトレンドに一石を投じるものとなり、いわばカウンター・カルチャーとして発生したアシッド・ハウスと王道のポップスを邂逅させるという成果を得た。



S'EXPRESS「Superfly Guy」


S'EXPRESS「Hey Music Lover」

この潮流はその後、POP WILL EAT ITSELFの演じる狂騒や、のちに大きなムーヴメントに発展するHAPPY MONDAYSを中心とするマンチェスター勢の地盤になったような気さえする。

アシッド・ハウスはブラック・コンテンポラリーへの親和性からネナ・チェリー『Raw Like Sushi』のような名盤を産みつつ、一方でサウンドを先鋭化して、よりシンプルでソリッドなテクノ、エレクトロニカへ発展していったんだろうね、くわしく知らんけど。

バイバイ
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by kamekitix | 2014-09-03 14:49 | Review
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